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郷土作家

筑紫野市にゆかりのある作家のコーナーです。

貸出できるものもあります。

杉山三代コーナー

杉山三代

筑紫野市との関わり

江戸時代の文化、文政ごろ、杉山平四郎は原田宿(筑紫野市原田)の代官を勤めており、文化九年(1812)9月25日に当地を訪れた伊能忠敬の応接をしたことが測量日記に残されています。

その子、杉山啓之進は長崎御番詰方、宗像郡大島の島司などを勤めましたが、慶応元年(1865)に起こった「乙丑の変」に連座し謹慎、長男は廃嫡になり、お家断絶の危機を迎えます。そのとき長女紫芽の夫として、藩校修猷館の助教をしていた青木久米次郎(杉山三郎平)を養子として迎え危機を脱しました。

三郎平は慶応二年(1866)に諸藩応接役となり、幕府や諸藩、また長州との交渉などを行いました。
明治元年、三郎平は藩主に藩士の帰農と版籍奉還を強く勧めたため、藩主から謹慎処分を受け、謹慎が解けると遠賀郡芦屋町で帰農しました。その後、本市山家に移り住み、筑前町二に敬止義塾を作り、郷土の子弟を育成しました。

作家紹介

◆杉山 茂丸(すぎやま しげまる)元治元年(1864)~ 昭和10年(1935)

三郎平の子。因幡町(福岡市中央区)に生まれる。茂丸の名前は小姓時代に黒田藩公から賜る。
三郎平から漢文の素養を叩き込まれる。御一新後、庶民の生活が良くならないのは薩長出身者が私腹を肥やしているためと考え、伊藤博文の首を取るため上京。上京費用は、熊本の佐々友房(済々黌の創設者・水戸学)と交渉し用立ててもらう。
山岡鉄舟の門下に入り、紹介状を書いてもらい伊藤と面談。丁寧な説明に納得し、日本の国のために命を大事にするように諭される。
その後、玄洋社の頭山満との交友が始まる。頭山に、活動資金を得るため、筑豊の抗区権を得るよう説得、抗区権獲得後は、石炭輸出のため香港に渡る。香港で植民地になった国の状況を観察し衝撃を受ける。また、経済を学び帰国。
日本が独立国として生き延びるための施策を一生かけて実施してゆく。

◆夢野 久作(ゆめの きゅうさく)明治22年(1889)~ 昭和11年(1936)

茂丸の子。小姓町(福岡市中央区)生まれ。大名尋常小学校卒業、尋常高等小学校を卒業。
福岡県立中学修猷館から、近衛師団に入隊、除隊後、文学と絵画・美術への興味から明治44年(1911)に慶應義塾大学予科文学科に入学し、歴史を専攻。翌年、在学中に見習士官としての将校教育を受け、陸軍少尉を拝命する。
1913年(大正2年)慶應義塾大学を中退。
謡曲喜多流の教授。「九州日報」(後の「西日本新聞」)の新聞記者を経て、ルポルタージュや童話を書くようになる。
夢野久作のいくつかの作品には特徴的な手法が採られている。一つは、一人の人物が延々と話し言葉で事件の顛末を明かしていく独白体形式によるものであり、『悪魔祈祷書』、『支那米の袋』などの作品が独白体形式の有名なものである。
もう一つは、書簡をそのまま地の文として羅列し作品とする書簡体形式によるものであり、『瓶詰の地獄』、『少女地獄』、『押絵の奇蹟』などの作品が書簡体形式の有名なものである。
代表作の『ドグラ・マグラ』も全体の半分以上が書簡体形式によって構成されている。

◆杉山 龍丸(すぎやま たつまる)大正8年(1919)~ 昭和62年(1987)

久作の子。福岡市東区唐原生まれ。昭和12年(1937)に福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業。
16歳で杉山農園を相続。久作から龍丸への教えは「民ヲ親ニス」(「大学」の一説)であり、「杉山農園はアジアのために使え」が茂丸からの教えであった。
陸軍士官学校を経て航空技術将校として、満州からフィリピンに従軍。貨物船が魚雷により沈没。10時間以上漂流したが九死に一生を得る。
フィリピンネグロス島で、レイテ作戦に参加。胸部貫通銃創の重傷を負い帰国。
帰国後、『ふたつの悲しみ』、『幻の戦闘機隊』、『飢餓に生きる人びと』などを著述。
戦後は一生をかけてアジアを救うために活動。インドのガンジー塾と交流しながらインド(パンジャブ州・ハリアナ州)で植樹し、そのための費用として46,000坪の杉山農園を使い切った。
ニューデリーから北に延びる国道1号線沿いのユーカリ並木は延長460kmといわれる。

安西 均・福永 武彦コーナー

安西均・福永武彦コーナー

作家紹介

◆安西 均(あんざい ひとし)大正7年(1918)~ 平成6年(1994)

大正7年3月15日に福岡県筑紫郡筑紫村(現筑紫野市筑紫)生まれ。
地元の筑紫小学校から福岡師範学校(旧制)に学び教師の道をめざすが中退。
新聞記者、出版社などに勤務しながら現代詩壇で活躍、上京後も福岡の同人との交流を深め、詩集だけで十数冊、著作は膨大な数になった。
文学への道は、師範学校に入って本格化したようで、「創作童話」にうちこみ学友と地域の小学校を熱心に巡回していた話がある。
当時は、日中戦争の緊迫した世情の中でも文学への志を燃やして上京、先輩を頼って「同人誌」活動を始めた。
昭和18年、25歳で朝日新聞福岡総局記者となり戦後再上京、昭和34年(同東京本社学芸部)の退職まで敗戦のドン底から復興に向った社会の姿をジャーナリストの目で鋭く追及した。そのかたわら故郷福岡の同人グループとの交流を忘れなかった。
地元では戦後すぐ「九州詩人」の編集委員となり、文壇の登龍門だった「九州文学」にも発表、このころ作家火野葦平、劉寒吉、野田宇太郎などとも知り合う。
中でも久留米の詩人丸山豊が主宰した「母音」には福岡師範の先輩岡部隆介(筑紫野市永岡市出身、現直方在住・詩人)の紹介もあって作品の発表を続けた。
安西は「丸山豊を師匠としていました」と同人に語っている。
東京では詩人・作家伊藤桂一などのグループ誌「山河」高田敏子主宰の「野火」のほか数多くの詩誌にかかわっていた。
日本現代詩人会会長、日本文芸家協会会員、平成5年度に勲四等瑞宝章を叙勲。
平成6年2月8日、東京で病死。享年75歳。

◆福永 武彦(ふくなが たけひこ) 大正7年(1918)~ 昭和54年(1979)

大正7年(1918)3月19日に筑紫郡二日市町(当時)生まれ。その後、福岡市で暮らし、小学校半ばで東京へ移り住む。
東京帝国大学文学部仏文科を卒業し、小説「風土」を書き始めたが、直後から長期に渡る療養生活が始まった。
その後も、たびたび病魔に襲われながらも、長編小説、詩作、翻訳、評論と多方面に渡る活躍をした。
長編小説「草の花」は、作家としての地位を確立させた長編小説といわれ、今日でも最も人気のある一冊です。
北原白秋の詩集「おもひで」の序文から題名をとった「廃市」は、柳川を思わせる架空の町が幻想的に描かれていて美しい短編小説となっている。
「日本書紀」や「古事記」など古典の現代語訳に加え、中原真一郎・堀田善衛と映画「モスラ」の原作となる「発光妖精モスラ」を出版した。
また加田伶太郎の名で推理小説も書いていた。
昭和54年(1979)8月13日に死去。享年61歳。

新着案内

西日本新聞2022年5月1日(日) ふくおか都市圏版
半世紀、その先に 筑紫野、春日、大野城市制50周年③ 「杉山三代 功績伝える」

郷土史家 杉山満丸氏による活動が紹介されています。
当館の郷土作家コーナー「杉山三代コーナー」もご紹介いただいております。
郷土コーナーへの掲示、掲載新聞も所蔵しておりますので是非ご覧ください。

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